「最高の瞬間をメモリーしよう!!」 福遊エンターテイメント代表取締役 朝井和彦さん

九州最大級の社会人コミュニティ「福遊」の創設者である朝井和彦さんの人生から学んでみました。

朝井和彦(あさい・かずひこ)さん

九州最大級の社会人コミュニティ『福遊』を運営する(株)福遊エンターテイメント代表取締役兼CEO。
『新時代コミュニティ論』を全国に伝える講演家として活動しておりビジネスタレントプロダクション最高顧問、個人・企業コンサル、スクール理事としても力を入れている。

福遊の誕生と歴史の秘話

  • 現在、運営15年目、会員数は2万人を超える「福遊」はどのようにして誕生しましたか?

  • 福遊の1番最初は23歳の終わりにネットから始まりました。当時、大学を卒業をして福岡の携帯会社に務めておりました。学生生活がとにかく最高だったのですが、社会人での日々は同じ会社の店舗の人2、3人しかずっと会わず仕事も苦しく我慢の連続でした。あまりにも社会人での日々が寂しかったのでその寂しさを紛らわす為にガラケーのオンラインゲームをやり始めました。それはオンラインゲームというのにはあまりもお粗末なものでしたが、やるならとことん極めてやろうと思いパソコンで攻略法を調べているとその中にあるリンクがあり、それをクリックするとモバゲーのサイトが出て来ました。当時は画面に出るアバターが新鮮なこともあり、これはゲームでなく新しいコミュニティだと思い込みそのサイトの中で「サークルを作る」のボタンを押したのが始まりです。

  • その後「福遊」をどのようにして大きくしたのですか?

  • その後、福遊はネットでのやり取りとリアルでの出会いの繰り返しで自然と大きくなりました。最初はモバゲーの中でサークルを作ってトピックを作って、自分の独り言をあげていきました。勿論、最初は誰もいませんでしたが、本当に少しずつ人が入って来て2週間くらいするとそのトピックの中で遂に自分以外で投稿をする人が出てきたんです。それが嬉しくてどんどん積極的に投稿や会話を続けていくと、ある時にサークルの中の男性2人と会わない?と言われて実際に会うことなったのです。最初はネットの暗い人だと思っていたんですが、いざリアルで会うと驚く程の凄いイケメンで、そのまま意気投合して一緒にドライブしてカラオケオールをしました。次の日も仕事だったのですが、その日の仕事は不思議といつもと気持ちが違いました。そこからまた違うサークルの中の人とリアルで出会うとこれもまた凄い感動してそこから一気にハマりました。最初に出会えた人達が本当に素晴らしかったです。もし、最初に会った人たちがネット系の暗い人だったら今の福遊はないかもしれません。

  • ネットで会話をして、今日集まろうとリアルで集まって終わってからまた楽しかったねとネットで会話すると私も行きたいですと新しい人が集まってくる。その相乗効果を何年間もずっと繰り返してきました。すると、次第に規模が拡大していき今日は天神の警固公園で40人くらい集まっていますや今日は志賀島で100人くらいで花火をします、カラオケを80人くらいで貸し切ったりするほどまでに大きくなりました。

    1番最初は同じ会社の人2、3人しか会わなかったのが、日に日に新しい人に会えるがとにかく嬉しくて自分の目で見える景色が街の色が変わってきました。その時は、まだ会社にしようとか事業にしようとかは全く考えておらず仕事ではないプライベートな時間での楽園でした。

  • どういう経緯で起業することになったんですか?

  • 実は、起業は起業せざるを得ない状況まで追い込まれました。最初はサラリーマンをしながらプライベートで福遊をしていました。ただ、会社ではよくいるサラリーマンと同じで毎日働きたくないと思いながら、嫌々働いていました。サラリーマンの時にしてた仕事は要領が良く人間関係も間違えなかったのでどんどん昇進をしていきました。ただ、どんなに昇進しても給与が上がっても気持ちが楽になることは決してありませんでした。しかし、福遊は自分が最初に創ったのもあり、一緒にいるみんなのことを自分がよく分かっていたので自然とマッチングをしていくと、福遊のみんなが好いてくれました。その落差が凄くてその時は本当に昼はしがないサラリーマンで夜は福遊の創造主でした。

  • 昔からギャンブルが嫌いで起業や転職といった新しいことに飛ぶこむ勇気がずっとありませんでした。しかし、会社で働いていると次第に自分にどんどん嫌な出来事が起きてくるんです。毎日スーツ着てネクタイを結んで出社すると急に肩に地蔵が乗ってきて何もしていないのに身体が重くなりました。それだけでなく、働いている店舗がなくなったり、鬼上司がいる嫌な店舗や車通勤禁止の片道1時間半かかる店舗に飛ばされたりしていよいよ耐えきれなくなり退社することを決めました。

    その当時は気づきませんでしたが、今、振り返ると早くそこから抜け出しなさい、もういい加減に勇気を出しなさいのサインだったなと感じています。

常にコミュニティと共にある子供、学生時代

  • 子供の頃はどんな子供でしたか?

  • 福岡県の北九州市小倉で生まれ小中高地元の学校で育ちました。子供の頃からバスケットやバトミントンなどの球技、トランプやボードゲーム、複数プレイ可能のゲームなどみんなでやるスポーツや遊びはなんでも好きでした。学生時代はバンド活動でボーカルをしていて、本気で将来プロになる為に頑張っていました。

  • 人生の大きなターニングポイントになったのは高校3年生の大学進学の時です。当時、AO入試で福岡大学に先に合格していました。けれども、とにかく学校が好きで離れたくなかったです。その時に偶々来ていた教育実習の先生に学校から卒業したくないどうしようと尋ねたところ、教師になったら学校にずっと居られるじゃないと言われて、その方法があったかと気付き、教師になることを決めました。また、その教育実習の先生に貰った大学のパンフレットにも強く惹かれて、福岡大学を蹴り、下関にある梅光学院大学に進学を決めました。もし、その教育実習の先生がいなかったら何かない限りは福岡大学に進学して全く違う人生になっていたと思います。

  • 大学生活はどんな様子でしたか?

  • 学生生活はとにかく最高の青春の日々でした。大学では初めての男子1期生で全体600人程いる学年の中で男子25人の生活でした。大学1年生の時は山口の角島辺りに通っていましたが周りが凄い田舎で見渡しても本当に海と山しかありませんでした。ただ、そのあまりの田舎ぶりに入学して半年ほど経つと下関にある短期大学と合併することになり大学2年から大学が下関市内に変わりました。それでも田舎で周りには遊べるような場所も何もなかったのですが、本当に毎日が楽しかったです。友人と一緒に海で語ったり、流星群を見たり、好きな子とこっそりと授業を抜け出したりしました。最高の青春の日々で、幸せは場所でなく人と人との間にあることに気付くことが出来た貴重な経験です。

    学生生活が終わりに近づいて周りがスーツを着て就職活動が始めた頃、自分は就職活動は真面目な人がやる活動でことで就職は就職課がなんとかしてくれると思っていました。そうではないと気付いても周りには平然を装いましたが、心の中は本当に動揺していました。とにかく大学を卒業したくなくてコミュニティから抜け出してくなくて時間よ止まれと毎日願っていました。

    それでも時間は止まってはくれないので、当時、福岡市に憧れがあったので福岡に行くことと身体的にきつくなさそうな第3時産業で働ける就職先を自分1人でタウンワークから探して福岡の携帯会社に滑り込みで決めました。

「最高の瞬間をメモリーしよう!!」

  • 最後にこの記事を読んでいる大学生の方にメッセージをお願いします!!

  • 大学生の時にとにかく人生の最高の瞬間を創ってください!大学生は勉強とか夢とか人間関係とか何かと色々あると思います。僕は大学生の時に勉強はあまりしてきませんでしたが、本当に最高で掛け替えのない青春時代を過ごしました。しかし、大学を卒業して社会人になると面白くなさすぎて死んでいる状態に等しかったです。その時に這い上がることが出来たのは、学生生活の最高の思い出があったからです。社会人になって大学生の頃の最高の経験がもう出来ないなんてあり得ない、諦めきれない、もう一度したい想いがずっとありました。それをずっと強く願い続けると脳が探してきて、その想いが叶う現象や出会いを引き寄せ続け、おかげさまで今も最高の仲間と共に毎日楽しく過ごす事が出来ています。そして、これからも仲間の夢が叶い合うネバーランドで一生青春をし続けます。

    大学生ならでは青春、それは恋愛でも良いし、仲間と何か熱中したことでも、一緒にバカをしたことでも何でも良いので思い返しただけで涙が出てしまうような感動の体験や最高の経験をすること。そして、それを強くメモリーするとあなたが社会人になって気持ちが落ちた時、このままで良いのかなって不安なった時にその最高の瞬間のセーブデータが必ずあなたを助けてくれます。

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