「対話とは自分を疑うこと」津屋崎ブランチLLP代表 山口 覚氏が大事にしている対話的感覚とその身に付け方(後半)
福津市津屋崎を拠点にまちおこしと対話を拡げる活動をされている津屋崎ブランチLLP代表 山口 覚さんと“対話”について語り合う対談の後半。
前半では、対話とは何なのか、出来ている人と出来たつもりになっている人との違い、どういう場面に対話を使うのかなどを中心に語り合いました。
この後半では、対話で意思決定は出来るのか、山口さん自身が大切にしている価値観と言葉遣い、そして対話的感覚について、話し合います。
ぜひ、対話について自分の胸に手を当てながら、一緒に読み進めていきましょう。
山口覚(やまぐち・さとる)さん
津屋崎ブランチLLP代表/一般社団法人まちかぞく代表/慶応義塾大学大学院特任教授
福津市津屋崎を拠点にまちおこし活動中。地域で楽しく活動し、たくさんの若い人達が移り住み、小さな経済をたくさん生み出す、スイミー理論を実践中。津屋崎での実験的まちおこしに賛同する小さなまちで活動する人々や、海外の人々とも交流を行い、「新しい価値観による暮らし方・働き方・つながり」を実現するべく様々な活動を行なっている。また、”人の営みの原点は対話である”という信念のもと、あらゆる分野に対話を広げる活動を行っている。
対話には意思決定の判断材料を増やし、同じ判断材料でも違う判断を得られる力がある
山口さん、僕は対話での意思決定は出来ないのではないかと思っているのですが、どのようにお考えでしょうか。
確かに意思決定の方法は多数決か何かしらで選ばられたリーダーが決める、この2つしか基本はないでしょう。
ただどちらだけでも上手くいかない感覚がある。
だから対話をするしかないと僕は思うよ。
対話をせずに、多数決若しくはリーダーが決めることはどれだけ狭い視野での浅い知識で判断しているかに気づいて欲しい。
人間は自分の知識と経験、価値観でしか決められない。
対話には判断材料を増やし、同じ判断材料でも他者からすれば、違う判断が出来る力がある。
対話せずに意思決定をするのか、対話をしてから意思決定するのかで全然違う違うということですね。
うん、だから意思決定では僕は知っているではなく、あまり知らないかもしれない。
その知らないことをあんたは知っているかもしれない。
だから、教えて欲しいという謙虚さが重要だね。
確かについ対話せずに決めがちですね。
僕らはそういうディベート教育を受けてきているからね。
学びや成長って言葉あるじゃん。
僕の中でその言葉は歳を重ねるごとに判断材料が増え、同じ判断材料でも違う可能性を見出す意味で捉えている。
だからディベートの考えで俺が正しい態度を出すのは学びや成長をずっと閉ざしている感覚があるんだよね。
断定は自分の世界を狭め、対話は可能性を拡げる
他に山口さんはディベート思考ではなく、対話思考で大事にしている点はありますか?
断定しないというのはずっと心掛けているね。
自分に自信や知識、経験がある人ほど断定をするけれども、断定をすればするほどにその人の器の端が見え、その人の思考はそこまでなのかと見えてしまう。
実は断定した先の世界がいっぱいあってその判断材料を知れば、この人はもっと変わるのになと感じるね。
逆に断定しない人はこの人は僕の知らない先の世界を見ているのかもしれないと尊敬するし、もっと話を聞いてみたくなる。
僕を含めて人間は自分の知識や経験、価値観の中で、断定しがちですが、もっと他の可能性に気づけるかどうかは大きいですね。
うん。対話とは自分を疑うこと。
断定したくなる時に、それを我慢して、なんで断定しようと思っているのか自分に問うのが対話。
そうしたくなる自分の知識と経験と価値観があるからに気づきます。
自分が偶然そういう人生を歩んだだけであって、相手は違うかもしれないと思う姿勢が大切。
僕自身も胸に手を当てて、思い直してみます。
そうだね。これはある寓話で目に見えない人が像を触ったら、
1人目は鼻を触って、これは大きい蛇だと言い、
2人目は足にしがみついて、これは杉の木だと言い、
3人目は尻尾を触って、これはロープだと言い、
4人目は耳を触って、これは大きい蝶々だと言った。
はい。
ディベート感覚だとこの一部を触って全てを知った気になってしまう。
対話感覚位は自分は真実の一部を握っているかもしれないが、全部ではない、皆の意見を集めて、全体像を見ようとする謙虚さがある。
そのために僕は文末の表現を
と言われている
と今は思っている
という断片もあるかもしれない。
ということも理由の1つかもしれない。
とかなり気を付けて使っています。
好奇心を持って違和感に気付くと良いことが起きる
最後に山口さんのような対話感覚はどうすれば身につけられますか?
対話と聞くと相手ありきなイメージがあるけれども、日常が対話なんだよね。
どういう意味でしょうか。
対話は教えてくれるものではないということ。
自分で勝手に問いを立てて、考えを巡らせる。
例えば、目の前のコップにはなんで取っ手があるんだ?
なんで自分が辛いものをかけたがるんだ?
そもそも辛いってなんだ?みたいにね。
目の前に疑問を持つということですか。
そう。なんでお皿には縁があるんだろう?
真っ白でもいいのになんで模様があるんだろう?
いくらでも問いが出てくるし、無邪気な子供のような感じ。
そういうのはめんどくさくてあまり考えてこなかったかもしれないです。
無邪気に考えられないと本質は分からないし、こういう好奇心を持ち、問いを立てる姿勢と今の経済社会をおかしいと思うのは同じ思考なんだよ。
今の日本社会は誰から教わることに慣れすぎて、思考放棄をしている人が多いように感じるかな。
自ら問いを立て、自ら考える癖付けが出来ていない。
まぁ、教える人からすると、右向けと言うと皆が右を向くから面白いよね。
違和感に気づく感じでしょうか。
そう。違和感、超大事だね。
違和感を持てば持つほどに社会から面倒だと思われがちだけど、それは自分は相手の気づかないことに気付いた素晴らしい感性だと大事にして欲しい。
その違和感をずっとノートに書き続けているときっと良いことが起きるよ。
そして、こういうのは癖。
理屈ではなく、反射に近いイメージ。
癖は才能に繋がっていくから、面倒くさがらずに、なんで俺は面倒くさいと思っているのか?とその自分さえも楽しんで欲しいね。
きっと映る世界がカラフルに見えてくるよ!
編集後記
山口さんと話して、僕は対話は言葉では理解したつもりになっていましたが、出来ていないかもしれないと感じました。どこかで断定をしたり、相手の意見を適当に流したり、自分が正しいと主張してた自分がいます。対話には社会を変える力があるのは本当にその通りだと思います。だからまずは目の前の相手に事象に対話の姿勢を持って取り組んでいきます。山口さん、この度はありがとうございました!
山口覚さんについて
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