「戦争の反対は対話である」津屋崎ブランチLLP代表 山口 覚氏に学ぶ対話が出来ている人と出来たふりの人の違い(前半)
今回は福津市津屋崎を拠点にまちおこしと対話を拡げる活動をされている津屋崎ブランチLLP代表 山口 覚さんに食事をしながらインタビューさせて頂きました。
「対話には社会を変える力がある。」
これは僕が悩んでいた時に山口さんからFacebookで頂いたメッセージです。
山口さんが言う対話とは何なのか?
対話が出来ている人とそうでない人の違いは何か?
社会を変える力があるというのはどういう意味なのか?
今回は初の前半後半に分けてお届けします。
山口覚(やまぐち・さとる)さん
津屋崎ブランチLLP代表/一般社団法人まちかぞく代表/慶応義塾大学大学院特任教授
福津市津屋崎を拠点にまちおこし活動中。地域で楽しく活動し、たくさんの若い人達が移り住み、小さな経済をたくさん生み出す、スイミー理論を実践中。津屋崎での実験的まちおこしに賛同する小さなまちで活動する人々や、海外の人々とも交流を行い、「新しい価値観による暮らし方・働き方・つながり」を実現するべく様々な活動を行なっている。また、”人の営みの原点は対話である”という信念のもと、あらゆる分野に対話を広げる活動を行っている。
自分の置かれている立場や状況の違いを踏まえて対話が出来ているかどうか
山口さんにとっての“対話”とは一体何なのでしょうか?
難しいね〜。色々な種類があるけど、僕が主にやっている対話は自分が変わることで相手との関係性を再構築することにあるかな。
対話を知識として理解するのではなく、実際に出来るようにサポートするのが僕の役割だと思うよ。
なるほどです。ありがとうございます!
では、その対話が出来ている人と出来たつもりになっている人の差はどういうところにありますか?
それは僕が今研究しているテーマなので、答えはなかなか出ないんだけど、周りから“先生”と呼ばれる人たちにとって対話は難しそうだね。
先生と呼ばれることにより強固な立場が与えられ、考え方が固まっていくし、自分に自信があって、物知りで答えを知っていると思っている人ほど、対話でなく、ディベートになりがちだと思う。
逆に日頃から理不尽な環境にいる人の方がディベートでは解決しない問題が存在していることを感じているので、対話の意味をすぐに理解して行動出来る人が多いように感じるよ。
例えば、学校の先生に自主性が大事だよと言われながら、大人の想像を超えた行動をすると叱られる子供や、まだまだ日本は男性中心社会の中にある女性、あるいは日本にいる外国人などが当てはまるね。
対話が出来ている人と出来た気になっている人との差は自分の置かれている立場や状況の違いが大きなポイントになるということですか。
うん。先生と呼ばれる人達も対話を受け入れなければと思っているよ。
しかし受け入れないといけないと分かっていながら、実際にやってみるとなかなか出来ないね。
もちろん、出来ている人もいると思うよ。
人にはそれぞれ見えない事情や言葉の裏側にある考えがあると思うんです。
んー?それはどういう意味かな?
例えば、待ち合わせの場所に遅刻してきた人になんで遅刻したんだよと怒りたくなるけど、何かあったの?と聞ける優しさを持ちたいなと。
おお!安部君は日本人の心を持っているね!
遅刻の背景になにか事情があるのかもしれないと気配りできない人はたくさんいるよ。ありがとうございます(照)
もしかしたら、渋滞に巻き込まれたのかもしれないし、道端の人を助けたのかもしれないし、それを言いたくて言えないかもしれない。
相手にも見えない正義があると信じていますし、正義の反対は悪でなく、正義であるという言葉をすごく大切にしています。
ひゃー、すごい!それは本当に真実だね。
今の言葉を聞いて思い出したんだけど、戦争の反対という話を聞いてうわ!まさにその通りや思ったことがあるの。
安部君、戦争の反対は何だと思う?
平和?
そうだよね、でもその人は戦争の反対は対話だと言ったんだよ。
すごくない?
本当にすごいです!
僕の中で戦争はディベートの行き着く先だという感覚があるんだよね。
さっき「正義の反対は正義」と言っていた話と一緒で自分が正しくて相手が間違っているという主張を互いにして譲らないから、最後に手を出すしかなくなると思う。
2人だと殴りあいかもしれないけど、これが国同士だと戦争になる。
対話は双方の主張を理解し合い、その中庸を見出す努力をすること。
ディベートの行き着く先は戦争であり、その反対は対話である。
シンプルにその通りだと僕は思うよ。
ディベートの行き着く先は対立であり、反対は対話
世の中には対話って大事なんですよと話した時に、生ぬるいとか、対立が深まっているときにはそんなこと言ってられないじゃんと対話の可能性を信じてくれない人も沢山いる。
けれども、僕にとっては全く真逆でシリアスな状況であればあるほど、対話を使わないといけないと思うんだ。
それはどういう意味でしょうか。
例えば、地球環境が今こうして破壊されている時に、誰のせいなのか?などをディベートをしても何も解決しないし、そんなことをしている場合ではないから、対話をして一人では対応が難しいであろう解決策の実現を行わなくてはならないという意味だね。
対話は余裕があるから出来ると思われがちだけど、それは逆で、ディベートは安全が担保されているから出来ると思うよ。
自分に自信がある人の多くのは対話の場を創るのを嫌がる傾向にある。
だってそれはめんどくさいし、自分達の思い通りに物事が運ばないから。
だから自分達の思い通りに運ぶプランを作り、説明・説得をしたくなる。
けれどもたとえ説得でその場は納まったとしても、不満のマグマが溜まり、見えないところで陰口が増え、いずれ爆発してしまう可能性が高まる。
常に誠実に相手の意見を聴き慎重に物事を運ぶ。
考えたら当たり前だけど、これが大きな話なればなるほど全体がよく見えなくなるので、冷静な対話により合意を一つ一つ積み上げ、全体としても納得性の高い結果に結びつけなくてはならないね。
対話が解決に向けて遠回りのように見えて近道なのかもしれないと感じました。
仰る通り、自分にとって耳が痛く、聞きたくない意見を真摯に受け入れる姿勢が大事だと思います。
どうしたら対話の姿勢が出来るようになると思いますか?
対話を社会に浸透するためには教育がカギだと思う。
対話が大事だよねと小学生時代から学んだ子どもが大人になり、親、先生、政治家になれば、社会は対話的になり、その子どもも対話的になる。この一つのサイクルは概ね30年掛かることになる。
すぐには結果が出なくても、教育の中で対話に粘り強く取り組んでいくことはとても大事だね。
30年。長いですね。
30年の取り組みの先に生まれることを信じられるかどうか。
自分が今やっている仕事が30年分の1年だと本気で思えるかどうかがとても大事だと思う。
僕は2つの理由からその感覚があるんだよ。
1つ目は僕が陸上選手だったこと。
100メートルを走る全力で走る短距離走者と40キロを全力で走る長距離走者を同時に見ると短距離走者が速く見える。
けれども、結果的に長い距離を早く走れるのは長距離走者であることは言うまでもない。
ただ世の中の人の多くは「短距離走」で物事を見ている感覚がある。
対話の効果を1年で検証するというようなこともありがちな話。
でも、1年で表面的に結果を出すのと、30年後に社会を変えるほどのインパクトを出すのは方法が全く違うと思う。
短距離走者と長距離走者の練習の方法も走る技術も全く違う。
長期的なプロジェクトの目利きをする上でその感覚が役に立っているよ。
2つ目はかつて建設会社の都市計画の部門で働いていた経験があること。
東京駅周辺を高層ビル群にするというマンハッタン計画について、当時は批判が凄かったけど、30年後には実現している事実を見てきた。
都市計画は30年後を考えてからスタートするのでその感覚が養われた。
まだディベートが主流の世界なので、それを変えていくには少なくとも30年は掛かるのは当然だと思う。
今福岡で10年くらい頑張ってきたから、後20年はやるつもりでいるよ。
僕が好きな言葉で「人は短期でできることを過大評価して、長期でできることを過小評価する」があります。
山口さんは常に短期目線でなく、長期目線で仕事をされているのが、すごいなと感じました。
シリアスな場面にこそ対話を使おう
対話が社会全体に浸透するのは30年かかる
後半に続く